一度、暗礁に乗り上げた結婚問題がどうやって解決に至ったのか

入江相政元侍従長の子息が遺した雅子妃「誕生秘話」から

979 名前: 名無し草  2007/05/17(木) 21:28:41
    入江相政の長男、入江為年氏が1993年2月1日に録音したテープがあり、没後
    月刊現代2001年6月号で公開された。
    腎臓が悪くなり、1992年12月25日から入院していた日大駿河台病院での口述。

980 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:28:50
    個人の遺志から未公開テープを掲載する
    入江相政元侍従長の子息が遺した雅子妃「誕生秘話」
    ――宮内庁を動揺させたワシントン・ポストのスクープは私が仕掛けた

981 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:29:02
    入江相政は息子に助言を与えたという。

    「自分が死んだら宮内庁に近づくな」
    「これをしてさしあげれば陛下がお喜びだろうとか、これをすればよく思って
    くださるだろうというふうに、こちらが善意でものを考えていても、宮内庁で
    は通じない。あの役所は善意が善意で通じない非常に陰湿な役所だから、そん
    なところには近づくな」

    ただ、天皇である当時の皇太子明仁に関しては、

    「皇太子殿下とおまえとは幼稚園時代からのご縁があったということは事実
    なのだから、殿下のほうから何か頼むというようなことをおっしゃられたら、
    地の果てにいても駆けつけて、お力添えをしろ。それ以外は何もするな。それ
    がおまえのためだ」


982 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:29:11
    >>364
    1992年10月 3日 再び東宮職内舎人の自家用軽ワゴン車により、新浜鴨場で二度目のデート
               「私と結婚していただけますか」「お断りする結果になってもよろしいでしょうか」
    1992年10月下旬 雅子氏「自信がないので」と断る
    ------------------------------
    一度、暗礁に乗り上げた結婚問題がどうやって解決に至ったのか。

983 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:29:22
    1992年10月21日の夜、入江為年のもとに一本の電話が入った。
    10月23日から28日の中国訪問を控えた友、明仁――天皇からの助けを求める電
    話だった。


984 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:29:37
    「浩宮の結婚問題のことで、一度あなたと会いたい。私としても何とかしてや
    りたいけれども、何ともできない。あなたからいい手助けをしてやってくれま
    せんか」

    「何がお困りですか」

    「いま、妃の候補者が三人います。三人いるのだけれど、浩宮としては、どう
    しても、小和田雅子さんといって譲らないのです。私としても、本人の意思を
    一番に尊重しなければと思っているし、美智子皇后もその点についてはまった
    く同意見だから、浩宮が望んでいることを考えた場合、小和田雅子さんが皇籍、
    皇族の籍に入ってくれることが一番の願いです。
    ただ、問題なのは、小和田さんに承知させるだけのものが、どうも手元にない
    ことです。また、反対する者も少なくありません。だから、何か小和田さんに
    承知させる手立てを考えてはくれませんか」

985 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:29:53
    翌日、為年氏はやはり幼稚園時代からの友人であるH氏と会い、事情を説明。
    「まとまるかまとまらないかわからんけれども、とにかく昔の友達が、何とか
    力を貸してくれと言うんだから、協力は惜しみたくない」

    そう為年氏が言うと、H氏もこう述べた。

    「五〇年前は同じ学校で、同じ机で勉強してた仲間なんだから、それが五〇年
    たった今日、片方が天皇になっていたからといって別に違いはないじゃないか。
    その後どうしてるっていうふうなことで、すぐにでも五〇年の穴は埋まるんだ
    から、まあ、天皇から話があったなんてそんなことなしに、やってみようや」

    H氏は当時の(93年)の国連大使と親しく、外務省筋に強い人物だったので
    外務省筋の意見をまとめて小和田家を説得するよう、各方面に働きかけ、11月
    16日にはOBも含めて外務省の意思がまとまった。


986 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:30:25
    外務省の意思がまとまった11月中旬の時点で、大勢は、ほぼ決まったという。
    また小和田雅子側も、外務省という組織の中では、女性はうまくいっても課長
    よくいって局長どまりかもしれないと思い始めたのではないかと軟化の理由を
    為年氏は推測している。

    1992年12月12日、小和田雅子はプロポーズを受諾。
    翌1月19日に皇室会議と日程が決まった。

987 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:30:43
    しかし、為年氏は1月4日に、入院中の病室から国際電話を入れ、旧知の間柄で
    あるワシントン・ポスト本社トップマネージメントに婚約内定を記事にするよ
    う勧めたという。
    ワシントン・ポスト側もこれに裏づけを取り、6日に記事にした。

    ワシントン・ポストにリークした理由は
    ・日本という国は、とにかく外圧には弱い、これを利用しようと考えた。
    ・私怨
     1992年末に出た週刊新潮(93年1月7日号)である元東宮侍従が為年氏のことを
    「陛下の信頼がない」「御所に一度も呼ばれていない」と語った。
     「善意が善意で通じる役所ではない」という父・相政の言葉をはじめ、宮内
    庁に対する鬱憤をはらしたかった

988 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:30:54
    彼はこう結んでいた。

    昨年10月の21日に私のところへかけてこられた電話、「本人の意思を一番に尊
    重しなければと思っているし、美智子皇后もまったく同意見だから、浩宮の希
    望をかなえてやりたい」というお話の中に、親としての両陛下のお気持ちがこ
    もっています。実に人間的だと私は感じ、話として遺しておきたいと思ったの
    でした。

989 名前: 名無し草 2007/05/17(木) 21:31:09 しかし、不思議だね。 入江氏は、皇太子夫妻の最初の出会いは、雅子妃がハーバード大学の学生だっ た頃、高円宮を通じて、と言っている。




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