小和田金吉氏の謎

小和田金吉に関する疑問

・本当に士族だったのか?
・彼の息子、毅夫が小和田の姓のままだったのは?

85 名前: 名無し草 2007/03/19(月) 21:28:06
村上における三度の火災と、新潟市内の菩提寺の火災、
そして二代にわたる早世。
これらの理由で、小和田金吉の戸籍は正確に記載されることがなかった。

ではどうして彼が村上藩士の家系であるといえるのか。
@村上藩の独自性

86 名前: 名無し草 2007/03/19(月) 21:28:47
村上は大名の入れ替わりが激しい国だった。
江戸時代当初の慶長時代からはじめると、
・村上家
・堀家
・本多家
・松平家(越前流)
・榊原家
・本多家
・松平家(大河内流)
・間部家
・内藤家
と藩主がめまぐるしく入れ替わり、内藤家の時代に幕末を迎える。

内藤家は譜代中の譜代。
一説によると家祖は家康の異母兄弟という家柄であり血筋に対する矜持も
並々ならぬものだったという。
小和田家はこの内藤家に従って村上入りしたと考えられている。
幕末にこの内藤家の家中は700人程度。
全員が顔馴染みと言って差し支えないほど小さな藩である。

87 名前: 名無し草 2007/03/19(月) 21:29:32
内藤家は村上では最長記録の藩主であり、150年間この地を収めた。
めまぐるしく入れ替わる藩士たちと、村上の町民との融合はあまり進まなかった。
三キロ四方の村上は、旧本丸を中心とする侍町「村上本町」と西側海手の町民の町
「村上町」とに分かれ反目しあった。
この二つの町では通婚はおろか交際さえせず、目の前で火事が起きても自分の町で
ないと出動しないほどだった。
言葉遣いもアクセントさえも異なっており、こうした侍階級と町民との分断は昭和にまで
及んだ。

小和田金吉の本籍の置かれていたのは、この侍町である村上本町である。
先祖の一人、兵五郎は大手門外小国町の同心組屋敷にあったが、金吉の本籍は与力町
のあった飯野に置かれている。
http://www.city.murakami.niigata.jp/somu/cm/yukari1.html

88 名前: 名無し草 2007/03/20(火) 20:55:22
村上という土地の特殊性、士族の住む町と町民の住む町との完全な分断は、
侍町である村上本町に本籍のある小和田金吉が士族である状況証拠のひと
つだったが、二つ目は「鮭の漁業権」である。

89 名前: 名無し草 2007/03/20(火) 20:55:58
村上を流れる三面川では鮭漁が行なわれていたが、年毎に波のある漁獲高
に藩の歳入が影響されないよう、村上藩は鮭の漁業権を入札にかけるように
なっていた。
落札価格よりも多くの漁獲があればそれは落札者の収益になる。

90 名前: 名無し草 2007/03/20(火) 20:56:46
明治五年、禄を失った村上藩士は内藤信寅を代表者に立て、鮭漁業権を落札
した町民、矢部喜三郎に漁業権の譲渡を願い出た。
矢部は困窮した藩士らに同情したのか、自分が落札したその価額のまま譲る。

藩士たちは翌六年、責任を持って川の保全・改修を行なうので入札なしに漁業
権を一年延長してほしいと、県に申請する。
懐の潤沢な藩士は資金を、禄のない藩士は自ら人足となって川の保全に取り
組んだ。
明治十五年には、村上鮭産育所を設立し人工授精の技術を開発した結果、三
面川は安定的な漁獲をあげるようになり、旧藩士の生活が潤うようになった。

そして明治十七年、旧藩士たちは三面川の永久管理権を得る。

91 名前: 名無し草 2007/03/20(火) 20:58:32
村上の町民たちからは、譲り受けた漁業権を旧士族たちが独占してしまった
ことに不満の声が上がった。
しかし禄を失い苦闘してきた旧藩士たちは強く結束し、鮭のもたらす収益を手
放さなかった。

旧藩士はすべて漁業権者であり、その権利は子々孫々に相続される。

この鮭漁がもたらす収益は、村上の外に出た藩士たちにも送られた。
明治十七年には小和田金吉が、大正十三年には小和田毅夫の名が、漁業
権者として載せられている。

三面川の鮭漁・漁業権者であったということが、村上藩士であったという状況
的な証拠のひとつにもなっているのである。

92 名前: 名無し草 2007/03/21(水) 08:55:17
村上藩の特殊事情

家中が700人余の小藩であった
侍階級と町民階級がはっきり分断していた
  住む場所も違う
旧藩士は鮭漁業権によって結束していた



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