小和田金吉氏の謎


小和田金吉に関する疑問

・墓が粗末なのは何故か?

105 名前: 名無し草 2007/03/22(木) 20:53:49
72 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2006/03/21(火) 21:39:03
河原敏明『皇太子妃雅子さま』 小 和 田 家 の 系 譜
ここで小和田家の戸籍系統図をみよう。本家は岩夫氏といい、現在東京都下
の小平市に住んでいる。岩夫氏の五代前の群蔵から分かれた兵五郎が、雅子さ
んの直接先祖になる。つまり兵五郎―道蔵(匡利)―金吉―毅夫―恒―雅子の
流れである。
その祖先が眠るという西真寺を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺 で、
元和四年以来、ここで三百七十年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、
毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟 市の泉性寺に移した、
という話をしてくれた。
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻
とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。高さが
七十センチ、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移す
ときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
と住職夫妻も不審気だった。昭和六十一年十一月、恒氏が外務省官房長のとき、
恒、毅夫の両氏夫妻が村上市にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠って
いるにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた
そこで小和田毅夫氏が、村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと住職の広沢誠師が、
「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓
だけがあります。
外務省の小和田家にとって初代に当たる兵五郎の墓は寺にはありません。
私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。
三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」
と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。
しかも泉性寺が明治十三年の大火で類焼しているので資料が乏しいという。
昭和五十五年に毅夫氏が、この泉性寺にある墓の台座だけを、よりよいものに直している。
ちなみに、河原氏のこの本は平成5年(1993年)4月に発行されているもの。

106 名前: 名無し草 2007/03/22(木) 20:55:11
西真寺(村上市)

・金吉の祖父:兵五郎(明治4年・1871没)
・父:道蔵の妻と子
・二基の墓石
・金吉(明治33年・1900没)
・金吉はのちに息子:毅夫により新潟:泉性寺に移される

泉性寺(新潟市)

・金吉の父:道蔵(明治7年・1874没)と金吉
・移転当時の先代住職が亡くなっているので経緯は不明
・毅夫氏がほぼ毎年墓参
・墓石はひとつ、台座は昭和55年(1980)毅夫氏により 修繕

107 名前: 名無し草 2007/03/22(木) 20:55:45
墓に関する疑問

・小さな墓であること
・毅夫氏が金吉だけを新潟に移し、その母、兄を残したのはなぜか
・古い墓を新しい台座に乗せたのはなぜか

108 名前: 名無し草 2007/03/22(木) 21:09:00
明治元年(1868) 小和田金吉・村上市本町一(現在の飯野一丁目)にて生まれる(?)
           http://www.city.murakami.niigata.jp/somu/cm/yukari1.html
           戊辰戦争/藩主の自殺・村上住民:西軍の侵攻により避難
           藩士ら徹底抗戦派と恭順派に分裂・村上城本丸炎上・西軍の進駐と略奪
明治 2年(1869) 版籍奉還
明治 4年(1871) 4月4日小和田兵五郎、死去(村上・西真寺に葬られる)
           7月廃藩置県/村上藩士700余人中300人が他所へ流出
           息子・道蔵匡利、金吉を連れて新潟へ転居(?)
明治 5年(1872) 鮭漁漁業権、落札者から旧藩士が譲り受ける
明治 6年(1873) 国民皆兵を目指す徴兵令が出され家禄支給の根拠が消失する
           旧藩士ら、入札によらない独占的漁業権申請
明治 7年(1874) 7月28日道蔵匡利、死去(新潟・泉性寺に葬られる)
           旧藩士ら、さらに五年の継続漁業権獲得
明治 9年(1876) 廃刀令、秩禄処分、士族の反乱
           http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/chituroku.html
明治10年(1877) 西南戦争

109 名前: 名無し草 2007/03/22(木) 21:35:52
維新と開国と近代化には不可欠であったであろう戊辰戦争は、村上の人々にも
多くの苦痛と煩悶をもたらした。
しかし、海外の国々の果てしない、長く残酷な大量殺戮の歴史と比べれば、まだ
マイルドであったと私には思われる。…最後の激戦となった鼠ケ関に近い山北町
中浜の町はずれに、通称「官軍様の墓」と呼ばれる墓地があり、ここには十四人
の土佐や越前の兵が葬られている。
戦い終われば勝者も敗者もなく、ただ武運つたなく散った魂だけがある。
先人たちのこのような節度ある精神が私は好きだ。
                       《遥かなる村上藩──雅子妃のふるさと》

110 名前: 名無し草 2007/03/22(木) 21:41:31
戊辰戦争
これがキーワードかな

111 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 06:45:41
376 :可愛い奥様 :2007/03/23(金) 05:19:25 ID:BFyvFU/N0
>>291
また遅レスでスマソ。越後村上藩の武士であった小和田家の金吉が三代前の先祖だとの
説があるのですが、金吉より過去にさかのぼれない不思議。
武士の家系の小和田本家の菩提寺の過去帳には、金吉の名が一切無い謎。
現在の新潟県民の方々が雅子の祖先を全く知らないのも当然でしょう。
-----------------------------------------
小和田本家の菩提寺の過去帳には、金吉の名が一切無い謎
・・・謎?

112 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 06:46:22
本悟寺(村上市)東本願寺大谷派

・小和田貞左衛門の二人の子の法名(1740)
・道助(1794生 1858没)本家

西真寺(村上市)西本願寺

・道助の弟で金吉の祖父:兵五郎(明治4年・1871没)とその妻
・父:道蔵の妻と子
・二基の墓石
・金吉(明治33年・1900没)
・金吉はのちに息子:毅夫により新潟:泉性寺に移される

泉性寺(新潟市)東本願寺大谷派

・金吉の父:道蔵(明治7年・1874没)
・金吉(息子:毅夫により村上:西真寺から移される)
・明治十三年の大火で類焼しているので資料が乏しい
・移転当時の先代住職が亡くなっているので経緯は不明
・毅夫氏がほぼ毎年墓参
・墓石はひとつ、台座は昭和55年(1980)毅夫氏により修繕

113 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 06:48:05
金吉の名が本悟寺にあるほうがおかしい

114 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 08:37:50
小和田家本来の寺は東本願寺大谷派だったけど
本家・道助の弟、兵五郎は西本願寺系に帰依した。
兵五郎の息子道蔵は東本願寺大谷派に戻った。
ということなのかな?

115 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 11:28:05
>>105
>昭和61年11月に毅夫氏が西真寺に墓参に来なかった

それ以外の時に何度か曽祖父兵五郎の墓参りに来ているそうだ。
http://www.iwafune.ne.jp/~osyagiri/masako.htm

116 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 22:47:40
小和田金吉が生まれたと思われる慶応三年から四年(=明治元年)は激動の年
だった。
慶応四年、一月三日、鳥羽伏見の戦い、一万五千の幕府軍はわずか五千の薩
長軍に敗れ、これまで磐石だと信じてきた体制が崩れ始める。
薩長軍は東北に向かって進軍し、長州の山形狂介と薩摩の黒田清隆に率いられ
た海道軍と、土佐の岩倉精一郎軍監が率いた山道軍によって長岡藩の挟撃が図
られる。
村上藩は苦悩の末、奥羽列藩同盟に加わり、西軍と戦うことになった。

117 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 22:51:00
六月 長州の軍艦「丁卯」が寺泊沖にあらわれ、大砲を放つ
七月 藩主信民(19才)藩の行く末を悩み自殺
    最初の激戦
    西軍の別働隊が軍艦六隻から新発田に上陸、敗色が深まる
    村上軍、退路を断たれ、会津に迂回して帰国を目指す
八月 西軍本隊村上に迫る、同じく秋田方面から南下してきた蒸気船による砲撃
    村上の住人、大八車や馬車で避難
    藩内は抗戦派と恭順派に分かれ、抗戦派は一族郎党を連れ村上を離れる
    村上城本丸、炎上
    西軍、村上城下に進駐、民家の略奪
九月 鼠ケ関での二度目の激戦
    村上・庄内連合軍は戦い抜くが、同盟軍が次々に降伏
    会津鶴ヶ城落城、村上藩抗戦派武装解除

118 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 22:53:32
小和田家が抗戦派と恭順派、どちらに属していたのかは分からない。
村上藩に関する資料は、三度の火によって失われ、西軍がどの方面から
進入したのかさえはっきりと確認できていないからだ。
どちらに属していたにせよ、乳飲み子を抱えた金吉の母は、西軍に追われ
村上を離れたのだろう。
乳児を抱えて持ち出せるものはほとんどなかったに違いない。
残していったものは略奪され、再び村上に戻ってきたときは、無一文だっ
たかもしれない。

119 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 22:56:32
明治二年の版籍奉還、四年の廃藩置県と、士族の逆境は続く。
小和田家の家長、兵五郎が明治四年に没する。
主家を失った他の藩士同様、金吉の父、道蔵が生活の糧を求め新潟に
住まいを移したのはこの頃のことかもしれない。

120 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 22:59:32
新しい住まいとなった新潟で道蔵が奮闘し始めた矢先、小和田家をさらなる
悲運が襲った。

道蔵の死である。

121 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 23:13:46
金吉は道蔵の三男であったと語られている。
しかし兵五郎夫妻とともに、金吉の兄と思われる子どもが葬られていること
からすると、新潟に移転した時点で金吉は道蔵の嫡男となっていたと考え
られる。

122 名前: 名無し草 2007/03/23(金) 23:23:25
同郷の旧藩士らの手助けがあったにせよ、道蔵の葬式の喪主は家督相続
人である七歳の金吉だった可能性が高い。
あなたは七歳の喪主に、どうしてもっと立派な葬式をしないか、立派な墓石
を用意しないのかと尋ねるだろうか。

123 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 10:59:04
小和田道蔵の死んだ明治7年(1874年)は若くして死んだ藩主信民の養父で
先代藩主の内藤信親が謹慎の末、亡くなった年か…。
まさか七歳の金吉を残して殉死とは思いたくないけど。

124 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 15:41:30
>>117
長州軍艦「第一丁卯」
http://page.freett.com/sukechika/ship/teiu1.jpg
榎本艦隊の「順動丸」と交戦、これを打ち破り、制海権を握った

125 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:51:58
幼い金吉は、いつか立身出世して父の墓を建て直したいと望んでいた
かもしれない。
しかしその彼もわずか33歳でこの世を去る。

その遺骨は、いったん村上の西真寺に納められた。
そして数十年後、息子毅夫の手で新潟の泉性寺に移された。

126 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:52:23
ではなぜ毅夫氏は、金吉の遺骨だけを新潟市の父、道蔵のもとに移した
のだろうか。
父と息子だけを新潟に、母や兄を村上の祖父母のもとに残していくという
ことが普通ありえるだろうか。

127 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:53:09
道蔵の妻子の没年が不明なので、この点はあくまでも推測に頼る。
ひとつの可能性として考えられるのは、村上に残してきた道蔵の妻は金吉
の母ではないという場合である。
先妻と子どもらを失った道蔵は、後妻である金吉の母との間に三男である
金吉をもうけた。

128 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:54:34
では、金吉の母の遺骨はどこにあるのか。
新潟の泉性寺は明治13年に類焼しているため、これ以前に亡くなっていて
資料がないという可能性もある。
または夫、道蔵の死後、その女性が別の家に再嫁したとすると、小和田家
の墓に入っていないのは当然だといえる。

129 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:55:08
最後に、

毅夫氏が古い墓を新しい台座に乗せるというイレギュラーな事を行なった
のはなぜか。

130 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:16:58
まず小和田毅夫氏の人となりについて

昭和10年の小千谷高等女学校の「同窓会会報」に毅夫氏の寄稿が寄せられている。
国語・漢文の教師であったが、このようにも記している。
「人はパンのみにて生くるものに非ず」といふ西諺の深き意味を味ふべきであると
共に、萬物の王者を以て自ら任ずる人間には、物質以外に、精神的な、本質的な深
い欲求のあることに覚醒すべきであります」

131 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:07
物質以外に、精神的な、本質的なものも大事にしたいと願っていた人物だという点
は興味深い。

132 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:39
毅夫氏に墓を完全に新しく建て替えるほどの資力がなかったとは思えない。
そうしない方が普通ではない。
ではなぜそうしなかったのか。

133 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:54
しかし「普通に」建て替えをした場合、古い墓石はどうなるのだろうか。

134 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:18:21
古い、不要になった墓石は、家族の了承を得られ寺側からも申し出があった場合、
表面を削りなおして無縁仏の墓として再利用することもある。
事実、小和田本家の過去の墓石も、本悟寺においてそのように再利用されている。

135 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:18:35
しかし最近ではそうもいかない。
建て替えや移転によって役目を終えた古い墓石は、石材店で処分される。
産業廃棄物として処理されたり、粉砕される場合もある。
#http://www.takagisekizai.com/rehome/010muenn/

136 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:19:08
毅夫氏の真意がどこにあったかは分からない。
しかし、いくら小さな墓とはいえ、士族階級が明日の生活にも困窮していた時代に、
戸主の道蔵に先立たれた一家が血の滲むような思いで建てた墓が粉砕されるのは
忍びないと思ったのかもしれない。

137 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:19:24
この小さな墓の前で、途方に暮れた七歳の父、金吉が手を合わせていた。
他人から見ればみすぼらしい墓でも、小和田家の歴史を物語る墓だと考えたのかも
しれない。

138 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:19:42
明治維新によって士族は職を失い路頭に迷った。

139 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:20:01
この時代に建てた墓をみっともないと捨て去るのもひとつの価値観。
その苦しかった時代ごと、歴史を大切にするのもまた別の価値観。



どちらもその人の生き様だと思う。

140 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 22:44:31
明治元年(1868) 小和田金吉・村上市本町一(現在の飯野一丁目)にて生まれる(?)
           http://www.city.murakami.niigata.jp/somu/cm/yukari1.html
           戊辰戦争/藩主の自殺・村上住民:西軍の侵攻により避難
           藩士ら徹底抗戦派と恭順派に分裂・村上城本丸炎上・西軍の進駐と略奪
明治 2年(1869) 版籍奉還
明治 4年(1871) 4月4日小和田兵五郎、死去(村上・西真寺に葬られる)
           7月廃藩置県/村上藩士700余人中300人が他所へ流出
           息子・道蔵匡利、金吉を連れて新潟へ転居(?)
明治 5年(1872) 鮭漁漁業権、落札者から旧藩士が譲り受ける
明治 6年(1873) 国民皆兵を目指す徴兵令が出され家禄支給の根拠が消失する
           旧藩士ら、入札によらない独占的漁業権申請
明治 7年(1874) 7月28日道蔵匡利、死去(新潟・泉性寺に葬られる)
           旧藩士ら、さらに五年の継続漁業権獲得
明治 9年(1876) 廃刀令、秩禄処分、士族の反乱
           http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/chituroku.html
明治10年(1877) 西南戦争
明治15年(1882) 村上鮭産育養所で人工授精の技術開発
明治17年(1884) 旧藩士ら、三面川の永久管理権を得る
           ※旧藩士であれば村上以外に住んでいてもすべて漁業権者であり
            水揚げによる配当金が送られてくる
           この年、漁業権者名簿に小和田金吉の名前
明治20年(1887) 新潟市内・和田写真館(?)で友人柴田義之助らと写真を撮る
           http://members.at.infoseek.co.jp/HIGEG/yosinosuke20.jpg
明治21年(1888) 友人義之助、海軍主計学校入学
           このころ(?)金吉、税吏になり、その後県内を異動
           仕事の傍ら聾唖者教育にもたずさわる
明治30年(1897) 近隣でも評判の美人、熊倉家次女竹野と結婚
明治31年(1898) 毅夫生まれる
明治33年(1900) 金吉、死去

141 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 22:45:43
村上市の歴史的資料は決して多くはないし、時間の漂白作用によって失われた
ものは膨大な量になるのだろうが、その断片がなにがしかの人間の喜びと悲し
みを、野望と失意を、勝利と敗北を、言葉少なく語ってくれる。…歴史をどこまで
遡行していっても、人間の営みの不思議さ、愛らしさがあった。人はかぎられた
人生をひたむきに生きてきたのだという実感がある。そのことが愛しい。
                       《遥かなる村上藩──雅子妃のふるさと》



142 名前: 名無し草 2007/03/26(月) 23:18:02
わずか140年前に日本が分断される内戦があったこと
支配階級だった侍が没落し困窮するようになったこと
誇りだけを支えに生き抜いた人々がいたことも忘れられていくんだろうか


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