チッソ問題 2-参考資料1

427 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 09:10:55
チッソ関係資料

水俣病50年(西日本新聞社)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/

水俣病資料ご利用案内(相思社)
http://soshisha.org/shiryou/shiryou.htm
428 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 09:19:27
一九七〇年代初頭、水俣病闘争のシンボルとして、日本列島中を「怨」の
黒旗が駆け抜けた。
発案者は石牟礼道子。

429 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 09:34:25
「告発」六十九年九月号には、彼女の
「怨霊たちのぼる水俣―患者家族のこの一年」という文章が寄せられている。
そのなかでは患者の怨みを代弁してこのように書かれていた。
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ぶっつぶれろ、ぶっつぶれろ、水俣の会社のなんのぶっつぶれろ。
水俣市のなんのぶっつぶれろ。
これ以上なかような地獄におとされたけん、おとした者たちの堕ちてくるのば
見る番じゃ。
431 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 09:36:14
水俣病のバイブルとさえ言われた「苦海浄土」
著者の石牟礼道子は水俣病の公式確認から半世紀を経た去年、こう語っている。
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メチル水銀に汚染され、一度は、生きものすべての「苦海」となった水俣はどうか。

「受難して、平和で美的な満ち足りた共同体が変形し、壊れ、ねじれた。
 それでも、どうしても壊れきれなかった質のいいものが残っています。
 再生の動きが」。

偏見や差別をあらため、優しさを取り戻した人々もいる。
世界に不安が広がる中、水俣は希望の地、「浄土」にも見える。

「今、思うのは、どんなに平凡でも、1人の一生に他者の表現は及ばないということ」
「(苦海浄土は)足りないことばっかり。
 人間の悲しみと優しさが。本当は全部書き直したいけど、命がもたないでしょう」。

「これからも私は魂を表現したいですね。魂の絆(きずな)と言ってもいい」
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_030.shtml
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そこには笑顔がある。
436 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 17:53:50
水俣被害者は、色んな意味で一枚岩ではないよ。

437 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 18:15:52
一任派、訴訟派、調停派、自主交渉派、中間派、被害者の会・・・
438 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 18:26:43
水俣病50年(西日本新聞社)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/

これは特にお勧め。
本にもなっているけれど、ネット上でも読める。

被害者から見た水俣病、加害企業から見た水俣病、官僚、政治家、
表現者、報道、色んな視点があって良かった。
特に、激しくチッソを批判してきた被害者たちが、自分たちもチッソと
同じことをしてしまったという「甘夏事件」は興味深いと思う。
人間って弱くて愚かだ。
自分が憎んでいた者に、今度は自分がなってしまうなんて悲しい。

439 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 23:50:52
http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/suishin/minamata/5chronicle/1971g.html
1971年当時の新聞の見出し
毎日 1971 7 27 <インサイド>
   チッソ社長、突然の辞任劇/公害関係ないと強気だが、
   「怨」のノロシが決定打
   シブシブ火中のクリ拾う後任社長

440 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 23:51:16
江頭氏が社長を辞任した後、島田氏が後任の社長となった。

「シブシブ火中のクリ拾う後任社長」
とあるが、彼は何故このような役回りを受け入れたのか。

441 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 23:51:48
彼は生え抜きのチッソ社員であり、興銀から派遣されてきた江頭氏の後を引き
継いだ。
総子(夫人)によると、社長を引き受けたときは
「江頭さんには苦労をかけた。この会社で禄を食んできた者として、僕がやら
なきゃならないことだ」
と言い、好きだったゴルフもぴったりとやめてしまったという。

                          水俣病闘争の軌跡「黒旗の下に」

442 名前: 名無し草 2007/04/15(日) 23:52:18
日窒は、昭和電工や日産と並ぶ新興コンツェルンでもあった。新しい企業の常
として守りよりも攻めを重んじた。(中略)
それは反面、危うさをも孕んでいた。技術に対する過信が生じやすく、少々の
トラブルは運転しながら直していけばいいという現場主義。事が起きたときの
ブレーキ役や後始末役がいない危機管理の甘さ。

                           水俣病闘争の軌跡「黒旗の下に」
450 名前: 名無し草 2007/04/16(月) 20:49:48
「昭和」そのとき(5)公害を許せぬ元近衛兵ー不知火の海で

昭和六十年五月。
亡き陛下が全国植樹祭のため熊本に来られる数日前のことだ。(中略)
隅本栄一さん(71)に「陛下の送迎会へ出るように」と勧誘の電話がかかった。
元近衛兵の後輩からだった。隅本さんは断った。
「陛下が好きとか嫌いとかではない。ただただ、行く気にはなれなかった」
水俣病に侵された震える手をかざしながら、言った。(中略)

チッソ。終戦までは軍需工場としても栄えた。
昭和六年、陛下の行幸があった。
軍服姿の陛下が当時の社長に先導され工場内を行く写真が今も残っている。

戦後、二十四年、陛下は再びチッソを訪問された。
総合化学会社として、日本の復興と経済の成長を助けている、とされていた
時代だった。
戦前、戦後、「昭和」を生き抜いた。そのチッソが、水俣病を生んだ。
だから、隅本さんは、チッソ、国、県の責任を追及した。
                  1989年(平成元年)1月13日 朝日新聞朝刊
451 名前: 名無し草 2007/04/16(月) 20:50:18
「今さら誰が悪いといってもね…」。
経済企画庁で水質調査課長補佐を務めた汲田卓蔵(82)の目に、突然涙があふれた。
「みんな知ってたんだよ、原因が工場排水にあることは。しょうがなかったんだ」
「今はもうさ、あんなことにはならないと思う。ああいう時代だったんだよ」

「経済成長が人命より優先された時代」ー昭和が生んだ病気
#http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_045.shtml

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